■Sestriere
クレイジーな速度で下って行った選手達を再びSestriere(2035m)で見れば、13atappa(第13ステージ)は終わります。前日、小雨の中をMonvisoから観客を或いは、Moto Guzziに跨ったPolizia(警官)に引っ張られて登ってくる同僚をよけながら、シャワーとマッサージそして食事とベッドが待つ宿へと降りて行った彼らにとって、快晴というコンディションは有り難いことでしょう。
悪コンディションが好きという、一部の者を除いて。
我々にとってもうれしい天気です。暗い空の下ポンチョにくるまり震えながら、Giro d'Italiaの一行を待つという苦行の必要が無くなったのですから。
そこらあたりに座り込んで、寝っころがって待っていればよいのですから、前日までと比べると天国、極楽浄土です。Saviglianoを11,50(11時50分)にスタートした彼らは、途中2つのGPM(山岳ポイント)をこなし、km166,8(166.8km)地点で最初のSestriere越えです。そしてkm192,0で2度目のSestriere、ここがArrivo(ゴール)です。
我々はコースを見下ろす斜面に座りこんで、彼らを待ちます。
隣では家族連れが店を広げてランチタイム。こちらは、道中で仕入れてきたスナック類と怪しげな色合いのジュース、まともな色のジュース、ミネラルウォーターで寂しく腹の虫をなだめます。
やがて来るであろう、彼らを待つ気持ちが空腹感をどこかに追いやっているようです。誰が一番最初に姿を見せるのだろう。Maglia Rosaを擁するチームのコントロールから、「まぁいいや行かしたろ」とお目こぼしにあずかった、総合成績をおびやかさないクライマーが上がってくるのでしょうか。それともMaglia Rosaを含む小集団がけん制しあってる姿を我々に見せてくれるのでしょうか。
コントロールをうまく出し抜いた有力選手だったら、いうことありません。それにしても隣はいい物を食べてるようです。うらやましい。・・・・・・・・
しかし真っ黒にイタリア焼けした男以外は、誰もイタリア語の素養はおろか、単純な単語すらも口から発することが出来ないので、コースの脇に店開きしているテキ屋からおいしそうなサンドイッチを買えません。
今から思うと、支払いは全員から集めたイタリアリラから一括してやっていたので、いわゆる割り勘だったので、金欠病の日焼け男は他の3人の思惑は判っていても、それに答えてやることが出来なかったのでしょう。・・・・・と私は理解しています。
まぁいいでしょう。我々にとって、Giro d'Italia御一行様を見るのが第一の目的でしたから、横目で見ながら我慢しましょう。6月初旬のフランス国境に近い2035mの山は、太陽が隠れたり現れたりする度に気温が変化します。コース上にたむろする連中のコスチュームも色々。
上半身裸もいれば、ウィンドブレーカーやダウンジャケットを着込んでいる者もいます。我々はさすがに裸になっているのはいませんが、Tシャツ、ロングスリーブシャツ、ウィンドブレーカーと色々。先頭を見いだす2、3時間前からキャラバンカーがにぎやかに上がってきます。窓からレーサーキャップ、ビラ、ヘッドバンドなどをばらまいていきます。
この年、イタリアは景気がよかったのか気前よくばら撒いていました。為替レートからも強いリラを演じていました。確か100リラが12円から13円くらいだったと記憶しています。翌1992年もほぼ同じレートでした。今年1997年の6月で100リラが7円から8円くらい。
1996年もその程度のレート。キャラバンカーからのばら撒きはほとんどありませんでした。やがて観客達が少しずつとコース上に集まってきて、そこいらあたりに壁が出来ます。
一度目のSestriereに現れてきたのは、小集団です。ONCE、CLAS、FESTINA、CASTORAMA、Z、ZG、PONY MALTA(Colombia)、に属する選手達の姿が手元の写真にあります。
Maglia rosa(総合1位)のChioccioliの集団は次だと思います。JaskulaがChioccioliを引っ張っています。Chioccioli、Jaskula、Cipolliniを擁したその当時(1991年)のdel tongo-MGチームのプロモーション写真を何処かで見ましたが、なかなかの迫力です。
やさ男で、イタリアの偉大なるCoppiの再来といわれたこともあるらしいChioccioliを中心に、強面のJaskula、Cipolliniそして左右に広がるアシスト連。山門の左右に立つ仁王さんに護られた本堂に御本尊のChioccioli・・・・・といった趣の写真でした。当時のFignonは既に勢いが衰えてきた頃で、彼を待っていたであろうフランス青年は、遅れて上がってきた彼に、国旗を振りかざして大きな声を掛けていました。
Fignonが過ぎ去っていった後、イタリアのおじさん達は、かのフランス青年を「フィニョン・・・・・・ナントカカントカ・・・・ハッハッハ」とからかうのでした。■Mortirolo
15atappaのゴールApricaは避暑地、スキーリゾートとして人気があるようです。
イタリアの子供用品か玩具のブランドにApricaというのがあったように記憶しています。そのAprica(1181m)に着く選手達には、Giro d'Italia屈指の激坂Mortirolo(1852m)が鬼門となります。
ふもとのMazzo di Valtellina(560m)から峠のPasso del Mortirolo(1852m)までの距離は12.6km。平均勾配10%。車で走ってもきつくて道幅も狭い峠道です。適当なところへ車を止めて見渡せば、快晴のもと北にスイスアルプスが頂に雪を置いた姿を見せてくれます。そして高山植物の花が咲き乱れる斜面でテントや寝袋、マットを乾かしながら貧弱な食料と共に、彼らを待ちます。ときおり通るPoliziaのMoto GuzziとFiat、そしてプレスのバイクと車以外はやって来ません。観客達は我々より遙かに早くから観戦ポイントに陣取っているのか、ぽつぽつとしか上がってきません。それとも反対側のEdoloから登っているのかもしれません。
今朝、或いは前日からこの峠は完全封鎖されています。
我々はイタリア焼け男のプレスパスと、車に張ったステッカーで上がってこれました。先頭或いは2、3番手の位置。しかも単独でChioccioliが姿を現しました。
Maglia rosaの霊験あらたかなのか、単独アタックに成功したようです。集中した眼差しで通過していきました。外見からは想像できませんが、何という強さ。
LelliとChiappucciが後を追います。そして小集団が間をおいて通過していきます。
カスクをあみだに載せたFignonも、併走するチームカーの向こう側を独りで過ぎ去りました。
虚空にうつろな眼差しを向けた選手もいます。ちょっと下のコーナーでは押し家さんも営業し始めています。
うつろな眼差しの彼らも峠を越えると、狭いコーナーをアグレッシブに攻めることでしょう。
TCI(Touring Club Italiano)1989年発行Lombardiaの地図 では、隣のPso.d.FoppaにはルートがあるのにPasso del Mortiroloへはルートが無いかのように表されています。
Giro d'Itala 1991/ 《1》 《2》《3》 《4》