タイムリー/ノットタイムリー
Vol.4
Vuelta a Espana 1997 - 見聞


last update:30 Nov.1997/last maintenance:30 Mar.1998
Vuelta 1997 Sierra Nevada
Contents
down
Introduction
Vuelta a Espanaを見てきました。・・・・といってもレースばかり見ていたわけではなく、いわゆる観光地巡りや田舎巡りもしてきました。
そして、ジブラルタルには行きませんでしたが、ポルトガルには行ってきました。

現地では、経過と結果が載っている新聞を手に入れる事が出来ない日もありました。車で町を通過していても、売っている所を見つけるのがなかなか出来ませんでした。
見つけたとしてもスペイン語が判らない私は、書かれていてる経過が理解できないのです。日本にいてWebから情報を収集したほうが、経過と結果を得やすいでしょう。

しかし現場にいて、その雰囲気を楽しむのは良いものです。もっともVuelta a EspanaはGiro d'Italiaに比べればいまいち盛り上がりが足りませんが。

Vuelta a Espanaの事、Spain、Portugalの事を時系列を無視して、思い出すままにこのページに載せていきます。時折覗いてみてください。

Contents
トラブル 30 Nov 1997 Portugal 30 Nov 1997
道路 11 Nov 1997 決算 30 Oct 1997
Corredores(その2) 19 Oct 1997 お足 19 Oct 1997
Corredores(その1) 14 Oct 1997 食事 14 Oct 1997
レンタカー 12 Oct 1997 街かど 12 Oct 1997
情報 8 Oct 1997 風車 8 Oct 1997
Andalucia 6 Oct 1997 観客 6 Oct 1997
このページ関連のPhoto
本文からもリンクしています。 19 Oct.1997

30 Nov.1997
トラブル
私は幸いにも、トラブルらしいトラブルにあっていません。
田舎ばかり行ってたのでまあこんなもんでしょう。
Madridにはかなりやばい所があるようです。

空港を出たのが夜の9時過ぎ、タクシーの方がバス(*1)よりは安全度が高い様なので、ずらっと並んだタクシーの先頭を探していると、早速白タクらしい客引きがあらぬ方向へと導こうとします。
やばそうな気がしたので、手と顔、口を動かして拒否。タクシーの列に近づくと今度は運ちゃん二人が誘ってきます。大丈夫だろうと乗り込むと、メーターがブラックアウトしていたのでMadrid市内のHotelまでの運賃をメモとつたない言葉で聞き、紙に書いてもらいました。webで仕入れた情報とほぼ合っていて、pts2,500でした。

Gran viaのホテルに着いて、腹ごしらえと外にでると何かやばそうな雰囲気、ほんの50mぐらいしか離れてないマグドナルドでコーラ飲んですごすごとHotelへ、マグドナルドの中にガードマンがいるんだもの、こりゃ外は・・・・と、ちょっとびびってしまいました。

Toledoで会った九州から来た老夫婦は、Prado美術館の近くでカモになりそうになったと話してくれました。

途中で合流した荒木氏とは、最終ステージの朝に分かれましたが、最終ステージの翌日にプラド美術館で偶然再会しました。 彼もHostalの前でスリにやられそうになったそうです。
エレベーターに乗る際、一人が話しかけてきている間にもう一人がいつの間にか背後に。ヤバイと思った時に、一人が寄りかかり財布を抜き取る。ここで彼は逆襲を試み、財布を取り返したそうです。
スペインの秋雨に備えて買った傘が役に立ったということです。

いろいろとヤバそうな所の情報はweb(*2)や「地球の歩き方」などに載っています。
私は、Prado美術館にも近いAtocha駅の周辺が比較的安全だと思い、そこで二泊しました。


(*1)バスターミナル
Colon広場の地下にあります。夜中に着くと危ない目に遭うという事で、私は昼しか行きませんでした。照明が少なくてかなり暗いところです。
Thyssen Bornemisza(ティッセン・ボルネミサ)美術館(Prado美術館の近く)で会った大学生が、アエロフロートで夜中に着いた同乗者がバッグをひったくられたという話をしてくれました。被害者は不幸にもパスポートをその中に入れていたそうです。更なる不幸は着いた日が金曜日。大使館は月曜日まで閉まっています。

(*2)web情報


contents
30 Nov. 1997
Portugal
このページは、Vuelta a Espanaからだいぶ離れた内容となってしまいました。
しかし、車でイベリア半島をほぼ半周したことだし、「私のVuelta a Espana(スペイン一周)」ということで・・・・と自己弁護。

ポルトガルは、スペイン以上にのんびりした国と聞いていました。しかし車は、やはりラテンの血で運転していっるとも聞きました。
Andaluciaから地中海沿いの国境に向かう内に、少しずつ緑が増えてきます。
国境にゲートは無く、橋を渡ればポルトガルです。
そして、家の数がスペインとは明らかに違ってきます。道路沿いの人口密度が高そうです。

幹線道路を離れると、道幅が狭くて一寸注意を要します。大型トラックが向こうから来ようものなら、ビビッてしまいます。
そんな狭い道でも彼らポルトガル人達は、100km/hくらいで飛ばして来ます。自分の車の幅が狭いことを、何度も自分自身に納得させないとついついスピードを緩めてしまいます。
路面も悪く、穴の空いた所にコンクリートを流し込んで、でこぼこになっているので自転車で走ろうなんて気にはなりませんでした。
困ったのは道路標識がいまいち親切さを欠いている事で、Lisboa(リスボン)に入る気なんて無かったのに、いつの間にかリスボン市内に入らされていました。旧市街をぶらついた後、高速道路に戻るのも大変でした。約2/3週程旧市街の周りを走らされました。

リスボンの旧市街は、こじんまりとしています。メインストリートが港に向かって続いているのは、かつての栄光の時代、イベリア半島の隅っこから大航海時代をリードしていた時期が有ったということを街自身が今に伝えているかのようです。

物価はスペインと同じくらい安くて、コーヒー一杯が\100以下なんて事があります。
ただ、Menu(定食)がRestauranteに無かったので、夕食はちょっと割高になりました。
料理は普通のplato(皿)に盛りつけてくるのではなくて、金属製のplatoに載せてきたものを自分の皿に取り分けて食べるという形式でした。
そして必ずといっていいと思いますが、platoには米を加工した物がほんのちょっと付け合わせのように載ってきます。どのような料理法か判りませんが、オリーブオイルを使っているのもありました。日本の米の加工法よりは、私の嗜好に合っています。私は寿司は大好きですけど、白飯というのはあまり好きではないのです。

contents
11 Nov. 1997
道路
Carretera・・・と大きく書かれた看板が、ときどき出現します。
路傍の石材に刻み込んだCM412などという数字で現在辿っているルートを確認できるのはもちろんのこと、このセンスの良い看板でもルートは確認できます。
道路はあくまでも真っ直ぐです。たまにすれ違う車はどれも120km/hくらいでかっとんで行きます。
高速道路ではありません、ここはあくまでも一般道路。高速道路では160km/hくらいで左側を抜き去っていきます。

制限速度は、郊外で100km/h又は90km/h、町に入ると50km/h。
80km/h位でちんたら走っていると、どんどん抜いていかれます。
私も隙あらばと狙い、時機到来となれば軽油の不完全燃焼ガスを振りまきながら抜きます。
もちろんアクセルはべた踏みです。

そんな道の端をたまにサイクリストが、どこかに向かって走っています。町の臭いなんて私には感じられないのに。
高速道路の端を走っていることもありました。たぶん、ほかの道路がない(存在しない)からでしょう。
120km/h位で排気ガスをまき散らしながら走っている車の脇を、よく走れるものだと感心します。まあ、道路が広いので身の危険はあまり感じなくて、走ってみると結構快適なのかもしれません。
しかし私は、そんなところを走るなんて御免こうむりたいものです。

19atapaのスター地点Valladolidから合流した荒木氏のナビゲーションのおかげで、21atapaまでは運転に集中していればよかったので、道路脇の空き地を探して走りすばやく止まる、という行為に一時さよならできました。
荒木氏と共に21atapaの個人タイムトライアル・コースへ意図したわけでもなく、何とはなしに車で紛れ込み「まあ、いいや。」と辿っていると、コースの一部に高速道路を使っていました。インターチェンジ2つ分位を使ったそれは、片側2車線全部を領有していました。反対車線をパイロンで仕切って、車は対面通行。
田舎道、対面120km/h以上というスピードに慣れている彼らにとって、どういということのない規制でしょうが、なかなかのコースレイアウトだと思いました。
レイアウトといえば、個人タイムトライアルを2回見ましたが、どちらもスタートした町に選手達が帰ってきました。9etapaのCordobaでは中央分離帯を挟んで、スタート直後とゴール間近の選手達が交差していました。

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29 Oct 1997
決算
カード会社からレンタカーの引落し通知書がきました。pts115,935\96,373となっていました。
レートはpts1.000=\0.831(pts1.205=\1.000)となります。19日間借りてましたから1日当たり\5,072となります。
盗難保険と車両保険、対人対物保険(強制)を含んでいますから、私はリーズナブルだと思います。エアコンも付いていたし。

スペインで生活資金として使ったのは\128,000です。航空券は\137,800です。
合計\362,173でVuelta a EspanaとPortugalを見て来ました。Prado美術館にも行きました。
24日間で計算すると、1日当たり\15,090です。これで、フォアグラ状態のエアラインも楽しめます。

KLMオランダ航空は、ビールがハイネッケンしかないのが残念でした。
しょうがないので?ワインをいただいていました。コニャックを頼んだらなみなみと注いでいただきまして、感激と、「んーこれはいけるかな」・・・・どうにかカーッペトに飲ますことは、避ける事が出来ました。

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19 Oct 1997
Corredores(その2)
Laulent Brochardが世界選手権の エリートクラス・ロードレース で勝っちゃいました。
Laurent Dufauxと共に、そして他のアシスト共に、Richard Virenqueをアシストしてステージレースを走っている彼にとっては思いがけないチャンスが巡ってきて、ちゃんと仕事をしたようです。彼の祖国Franceの為に。Laurant Jarabertの為に働いてた彼が、得たビッグタイトル。来年は五色の横ライン入りのFestinaジャージを着て、Richard VirenqueとAlex Zulleの為にアルプス、ピレネーで働くのでしょうか。

強いと思いますが、弱さも見せてくれる Laurent Jalabert 、Sierra NevadaのステージでZulle、Dufauxのグループから遅れ一人で上がってきました。Dufauxらより明らかに遅いスピードで、その表情はかなり苦しそうでした。
そしてその日、Dufauxに黄色いリーダージャージを渡しました。
その彼は、世界選手権 タイムトライアル で1位を取りました。2位は最近売り出し中のSerguei Gontchar(UKR)、3分32秒遅れでした。
世界選手権後のUCIランキングリストでJalabertは、堂々の1位。やはり強いんでしょうねえ。Vuelta a Espanaでも最終成績は7位。1995年は最終ステージまで黄色のジャージを着て、つつがなく過ごしたようですから、んー強いようですねえ。

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お足
一般的に物価が安いラテンの国、更に安いスペインのおかげで、滞在に必要なお足は車の燃料代を含めて13万円以内で収まりました。
マドリッドでの行動開始が9月10日、ポルトガルに3日滞在。10月1日にKLMに乗ったので22日間の滞在となります。キャンプ場で10泊、Hostalで9泊、そしてHotelで2泊しています。キャンプ場の料金はpts900からpts1,500くらい、Hostalはpts2,000からpts3,000、Hotelはpts4,000とpts2,500でした。
夕食は全てRestaurante(レスタウランテ/レストラン)で食べていました。Menu(メヌ/定食)という便利な物が大抵のRestauranteにはあります。(食事の項を見て下さい)
ポルトガルのRestauranteではMenuに相当するような物はなかったものの、スペインよりちょっと高いかなという程度で満腹になるし、テーブルワインでいい気分にもなれました。

スペインの高速道路は、1部を除いてタダ(無料)。軽油は日本と同じくらいの値段。燃費がよかったので、助かりました。

お足は関空で約\20,000を両替。現地で\20,000のT/C(トラベラーズチェック)を5枚両替。私にとっての新兵器「CITIBANKカード」で2回引き出しました。

現地でT/Cの換金レートは関空でのレートより良かったのですが、手数料をpts1,000程取られました。手数料無しというところもありましたが、レートが低くて受取額はあまり違いませんでした。
ポルトガルでの両替は一度だけですが、手数料をなんと$2,500も取られてしまいました。「$2,500もあったらパソコン買えちゃうよ・・・・」いくら物価が安くても、そんな事なんてあるはずないですなあ。
$はポルトガル通貨のエスクードの略号で、スーパーマーケットなんかでスナックの箱に 200$00 の値段が張られています。
$2,500あれば、ちょっと豪華な夕食を食べることが出来ます。

新兵器「CITIBANKカード」これは使えます。
ただし、普通の銀行カードのように、あらかじめ入金してないと、1枚のお札も機械から出てきません。引き出し手数料は、1回につき\100だったと思います。利子は付きません。
月刊誌の「AB-R0AD自由旅行」に広告が載っています。Webの AB-R0AD自由旅行 にも載っているんじゃないかと思います。JTBが扱っているようです。
出発数日前に送られてきたカードを、関空のCITIBANKのATMに入れて、暗証番号を変更し、\20,000を入金しました。そして、スペインでpts5,000ポルトガルで$5,000引き出しました。
帰国してから関空のATMで精算してみると、懐に\12,077帰ってきました。
レートはT/Cよりちょっと悪いかなと感じましたが、T/Cの両替手数料を考えると、遜色ないか有利ではないだろうかと想像します。レートが判ればもっと安心して使えそうです。
銀行の営業時間に左右されず、24時間引き出し可能なATMが多いというのが売りです。ATMは余程の小さな町でない限り、銀行の建物の外壁にあります。ハイパー・マートでも見ました。ATMには使えるカードの一覧表が張り付けられていまして、その中から提携先のCirrusを見つけて、カードを入れて画面どうりに操作すればお足が出てきます。操作の指示をしてくる言語は、あらかじめ選んでおきます。

カードを盗まれたり、落としたりしない限りは有り難い道具だと思います。そういう災難にあったら、引き出しの凍結は、迅速に行ってくれると思いますが?
カードの再発行には時間が掛かりそうで、役立たずとなりそうじゃないかと想像します。
突発的にお足が必要になったときには、有効に使えるでしょう。

富士銀行もJTBがらみで同じサービスを始めているようです。

両替レート:\1.00=$1.49 、 \1.00=約pts1.24

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14 Oct 1997
Corredores(その1)
スペイン語では自転車選手達のことをCorredoresと云うらしいです。

スイス人Laurent Dufauxは毎年、彼のチームの野望であり、エースRichard Virenqueの野望でもあるTour de France制覇のために、せっせとアルプスを、ピレネーをVirenqueを導いて登っています。
今年、彼のVuelta a Espanaはエースとして始まり、エースとして終わりました。
有能なアシストは、エースに勝るとも劣らないということを証明して見せたのです。
20aEtapa(26 Sep.'97)第1カテゴリーのPuerto de Mijares(1570m)で、Alex Zulleの黄色いジャージを奪い取るというわずかな望みを捨てずに、チームメートに護られたZulleが追撃する第3(?)集団から逃れることに気持を集中し、凄い形相でペダルを踏みしだくがごとくに峠を越えていきました。私はその時そこに居て、彼を見て、そう感じました。結局それは功を奏しなかったのですが、今でも思い出すその形相には素晴らしいほどの執念を感じます。

そして来年からは二人になるエースのために働くであろう彼の、意地というか、エース達に変わらぬ信頼を得るために、そして「自分はエースとしても働けるんだよ。」という力を見せつける機会をとらえて、しっかりと演じた舞台だったような気もします。
来年はFestinaチームの二枚看板、VirenqueとZulleのために、灼熱あるいは冷たい雨の中Dufauxは登り続けることでしょう。彼が移籍しない限り。

かつてのエース達、と表現すべきかTony RomingerClaudio ChiappucciGianni Bugno彼らは外国人にもかかわらず、名が売れているスペイン人選手達と同じくらいに、いやそれ以上にスペインで人気があります。
Rominger、Chiappucciはエースナンバーを付けて最後まで走りました。Bugnoは山岳ステージを制した翌日、家に帰ってしまったエースのTonkovのために働いていたことだと思います。

Chiappucciは、Zulleから16分22秒遅れの総合11位でVueltaを終えました。まだまだ、ボロボロ状態ではないようで、来年も走り続ける様に思いました。やっぱり彼は元気だワ、ちゃんと逃げの集団の中にも潜り込むし。

Bugnoは、何と2時間47分遅れの95位! 何とも言いようがありません。来年はどうするのでしょう。 どっかのレースで意地を見せるのでしょうか? この世界から足を洗うのでしょうか?

59分41秒遅れの38位で、Vueltaを終わったRominger。タイムトライアルのスペシャリストは、2回有ったタイムトライアルで、成績こそ振るわなかったものの、きれいなフォームで存在感のある走りを我々観客に見せてくれました。
1993年から1995年にかけて、Tour de France、Vuelta a Espana、Giro d'Italiaで見た顔つきと今年のそれは明らかに違っていました。走るのを楽しんでいる様な、柔和とも見て取れる顔になっているのです。やはり、彼にとって最後のビッグステージレースになるのでしょう。
今年はスペイン・バスク地方San Sebastianで行われた、世界選手権の タイムトライアル で、彼は4位という成績を出しています。私は、まだまだやれるじゃないかという気がします。

contents
食事
comida」「comida」と風車の丘で会った地方警官のおじさんが言っているのを聞いて、「何でコミッションを払わないかんのや、両替する訳じゃないのに、ここ銀行と違うやろ。」と意味が訳が分からず、まあとにかくスペインですっかり大きくなってしまった胃袋をほんの少しなだめる為に、車の中へ入ってラスクのようなスナックとnaranja(ナランハ/オレンジ)、zumo(ズモ/ジュース)でささやかな、昼食。

barのニーチャンに、「cena」「cena por favor」「食事お願い」と言ってbarから奥のrestauranteへの通行許可を得まして、「ああ、やっと飯や。8時まで短いようで長かった。」とイスに座りました。「ニーチャンcomidaって言ってたなあ、食事関連の単語らしいなあ。」
帰ってきて、辞書で調べてみますと、食事、昼食とありました。昼食と食事が同じ単語とは!一日のうち最も重要な食事は、昼食だということを聞きかじっていますので、さもありなん。
cena(セナ/夕食)、desayuno(デサユーノ/夕食)は覚えて、スペインへ行ったのです。なんせ生命線の単語ですから。

他の旅行者はどうなのか?
私は、昼食をほとんどまともに摂っていませんでした。
なんせ夜が明けるのがほぼ8時、ねぐらを出るのが早くて9時、ガタガタやってると10時になりますから、朝食と昼食が重なっちゃいます。それに食事に付き物のvinoを飲まないなんて私の常識が許してくれませんから、その後の運転に自信がありません。いやですよ、新聞ざたになるのは。

朝食をキャンプ場のbarやHostalで頼むと、ジュースは付いたり付かなかったり、caffeにミルクを入れるか、そのままかの選択肢。小さな、本当に小さなパンケーキ風の物が2つ3つ、それだけだったり、トーストが付いたり、夕食の時に出てくるパンが付いたり、といろいろです。

昼食は、夕食とほぼ同じボリュームだと思います。menu(メヌ/定食)を頼むと、夕食と同じように飲み物を何にするか聞かれるでしょう。
うまくすれば、1996年のTour de Franceで意識がもうろうとなりつつあったIndurainがよそのチームカーに人差し指から薬指まで閉じて、その形のまま親指を口に2、3回持っていったのと同じジェスチャーを伴って彼は聞いてくるでしょう。

毎日夕食は、menuにしていました。値段はpts875からpts1500まで、当然のこと飲み物が付いています。私は何のためらいもなくvino。1皿目はスープかサラダ、パスタを取ります。2皿目は肉か魚。最後にデザート。そしてcaffe solo(カフェ・ソロ/コーヒー生一本)これにはpts150くらいを出資します。
量が多いのは鳥料理、腹がパンパンで夢にまで見てしまいました。夜中に「こりゃ、やばいんでないかい。ゴロゴロいってるわい。」と不安になったこともありました。

味は大ざっぱで、スパイスもあまり使っているようではありません。ちょっと塩が利きすぎているかなと感じました。
田舎ばかり廻っていたので、都会のmenuを味わう機会はあまり有りませんでした。

私の好みは重みのある物か、すらすらと喉を通る癖のない物ですから、vinoもいまいちでした。甘さがに気になる物ばかりでした。La Manchaの南端とMadrid、Madridno近郊El Escorialの三個所を省いてtinto(ティント/赤)もなんか気になる甘さを感じました。しかしその三個所では、力を感じさせるtintoが出てきました。

contents
12 Oct 1997
レンタカー
10月9日にEuropcarからレンタカーの計算書が届きました。
それが何故かスペインからではなく、東京は田町の転送サービス会社らしきところから、80円の高輪郵便局のスタンプを押して。
邪推してみました。スペインの海外航空郵便料金は高いのか?郵便局がイタリアと同じように怠慢で。いや失礼!あわてない郵便局員にシンクロナイズ出来ない我々日本人のために、安心感を与えてくれたんでしょうか?
その転送サービス会社らしきところにFAXで情報を送るんでしょうか、提携先の 日本レンタカーのコンピューターシステムを通じてでしょうか、もしかしたらエアーメイルで?

タイムリー/ノットタイムリー Vol.3で調べた料金とちょっと違っています。最初の予定より1日少ない19日間借りました。

Europcarの料金(20間借りた場合 Pts=スペインペセタ)
調査日 6月 8月1日 19日間レンタル
基本料金(1日) Pts2,957 Pts3,161 Pts3,161
車両保険CDW(1日) Pts1,960 Pts1,960 Pts1,960
対人保険 inc. inc. inc.
対物保険 inc. inc. inc.
盗難保険TP(1日) Pts360 Pts375 Pts375
Savice Charge 約Pts3,000 不明(Pts3,000で計算) 不明(Pts3,000で計算)
税金TAX 16% 16% 16%
Total Pts 125,906 130,987 124,132
Total 円 100,725 104,790
代表車種 Peugeot306 (MT) Peugeot306 1.4L (MT)
以上が行く前に調べた料金です。レートはPts1.0=\0.8でやってますから、今のレートだと少し高くなります。

次に計算書の内容です。

19日間レンタル
基本料金(1日) Pts3,161
車両保険CDW(1日) Pts1,665
対人保険 inc.
対物保険 inc.
盗難保険TP(1日) Pts360
Savice Charge Pts1,600
税金TAX 16%
Total Pts 115,935
Total 円 96,373
NISSAN ARMERA 2.0Diesel (MT)

最初の思惑よりも安くなったのは、嬉しいかぎりです。

優先道路に合流する毎に安全のため、レッドゾーン近くまでアクセルを踏みきっている内に、なんだかディーゼル・エンジンの音が変わって来ました。
5,000kmは走らせました。燃費と軽油の安さのおかげで、一日当たりに消費するスペインペセタ(Pts.)は少なくて助かりました。それと故障の確率がぐっと少ないのもいうことなしでした。
しかしベタ踏みでレッドゾーン近く迄エンジンを回さないとシフトアップもままならないのには、苦労しました。まあそのうち慣れちゃって、「ほれ本線に出るぞ!アクセルONじゃ」を繰り替えしてましたけど。

NISSAN ARMERAの日本名は何でしょう? 相当する名前はないのでしょうか? ベースは何でしょう?

Infomation ...... 30 Mar.1998
1998年、日本レンタカ−はEuropcarとの提携を解消。
ダラ−レンタカ−(0120-11-7801)が引き継いだようです。

contents
街かど(Espana、Portugal)
Espana、Portugalどちらも、時々これから歩いて行く方向の歩道を見てないと、キョロキョロしていると踏んでしまいます。それはパリでは落ち葉の下にあるといいます。私も今年一度踏んでしまいました。犬の糞を。乾いていればまだしも、グニャッという感覚は気持ちの悪いものです。
さすが、ラテンてやつですかねえ。Italiaもそうでした。

13aEtapaのMeta(ゴール)地点のEstacion Valgrande Pajaresはスキー場でした。
夏の間は牛を放牧しているようで、道路の上に彼らの落とし物。観客達は気にとめる様子もなく、立ち疲れた体を糞の側に腰を下ろすことでいやしていました。
私は、「何で好きこのんで、糞の側に身を置かなあいかんのや」と、おおかたの日本人が見て異口同音に「きれい」と云うであろう処に腰を下ろしました。
彼らは牛、羊、馬を身近なものとして、また重要な食料として暮らしているので、糞なんかは気にならないのでしょうか。それとも、素晴らしきおおらかな性格のためでしょうか。

ゴミも街かどのそこら当たりに散乱しています。
最初のうちは、「何じゃこれは、掃除くらいしろよなあ。」と思っていました。そのうち慣れて、「噂に聞くシンガポールのように、ゴミ一つ落ちていない町というのも不気味だし、まあこんなものかな。」という気になってきます。ゴミがない町は何か寒々として、人気が少ないような想いさえ沸いてきました。
Barの床にもゴミが散乱しています。カウンターの中の兄ちゃんが、カウンターの上を掃除するのにゴミを外へ、つまり客のいる方にゴミを落としているのも見ました。

田舎の小さな町にも、 ちゃんとCentro(セントロ/中心)が有ります。そこは広場です。地方によって、 広場を囲む建物の作り方が違っているようです。周りにはBarやRestauranteが軒を連ねています。生活に必要な店も並んでいる事もあります。パン屋、雑貨屋、肉屋、八百屋、銀行、等々。
旅行者は、朝、昼、夜そこに行けば食事にありつけます。道路脇の標識が、狭い道を導いてくれます。
大きな町で標識をたどれば、かなりの忍耐を強いられるかもしれませんが、旧市街に入って行けます。そして、歴史的な建物に出会うでしょう。

contents
8 Oct 1997
情報
日々の情報は、プロバイダーが海外提携していてアクセスポイントがスペインにあれば、ノートパソコンとモデム、ACアダプターを持っていけばWebから入手できます。勿論、電話回線のモジューラジャックが必要でしょう。
しかし、私はモジューラジャックを一ヶ所でしか見かけませんでした。街角の公衆電話にはありませんでした。たまにHostal(オスタル)、ごくたまにHotel(オテル)で泊まりましたが、そこでもありませんでした。
あるキャンプ場でアシスタントサービスに航空券のリコンファームを依頼するために、公衆電話のフックを上げるとそこにありました。それが唯一見たモジューラジャックでした。
スペイン、ポルトガルのキャンプ場には、コンピューター化されてるところが沢山ありました。もしかしたらそれらのキャンプ場にモジューラジャックが有ったかもしれません。

私は、MARCAasという新聞で情報を得ていました。しかし毎日というわけにも行きません。探すのが街によっては結構大変なんです。
そして、余り積極的に探す気もなかったのです。だけれども個人タイムトライアルの日は、出走順を知る為に街で新聞を探しました。雑誌も置いてあるkioskの様なスタンドや、他の物(雑貨や食品)と一緒に並べている店で買えます。

コースの情報は、Oficialサイトに詳しく載っているのを後で気づきました。
現地では新聞を売っている所に、Ciclismo a fondo と bicisportの二つの雑誌がガイドを出していました。どちらもきれいなカラー印刷です。
Ciclismo a fondo はOficialサイトと同じように、どこをどの方向にスタートして、どの道を通って次の街へ行くのか詳しく載っています。por CL-601やN-120等と有るのが道路の番号です。MICHELINの地図(1/400,000)に載っている番号とほぼ一致します。数字が一致しても、アルファベットが一致しないことがあります。しかし充分に使えます。しかし、コース地図が載っていないのが残念でした。
bicisportには、コースの道路の説明はありません。今年は使い物になりませんでした。次の年は変わってるかもしれません。
イタリアのBS(BICISPORT)が別冊で出しているGiro d'Italiaのガイド、LA GUIDA DEL GIROには道路番号は勿論のこと、道路地図をコピーしたコース図も載っています。大変使いやすいんですわ。
この面でもVueltaはGiroに一歩譲っています。

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風車
Vuelta a Espanaの最終日、私はいにしえの都Toledo(トレード)のBarで、サンドイッチとcafe con leche(カフェ・コン・レチェ/ミルク入りコーヒー)と共にテレビで少しの間見ていました。
Toledoは或る程度期待していましたが、それまでに訪れた城壁に囲まれた小さな町が、スケールアップされた程度にしか感じませんでした。
もしMadridから最初に訪れたのがこの町だったら、「城壁の町っていいなあ、スペインの田舎もいいじゃない」と思ったことでしょう。
私は、El Greco(エル・グレコ)が晩年過ごしたというToledoに来たかったのです。当然のごとくに宗教的な絵が多い彼の、浮揚感のある構図とそこに描かれた長い顔の人達。宗教画には余り興味がない私ですが、彼の絵には何か引きつけられます。この町にも幾つかの絵が残っています。

La Mancha(ラ・マンチャ)地方は Andalucia程の荒野ではありませんが、雑草が規則正しく生えて荒れているように見える土地が、地平線の彼方まで広がっています。
雑草のように見えるのは、Vinoの原料。 ブドウ といってもちょっと日本のとは様子が違います。丈が30cmから40cmくらいしかないのが、まさに雑草然と茂っています。
家族のみならず親類縁者が総出なのでしょう、沢山の人達が収穫を行っていました。採ったブドウはトラックの深い荷台へ。こぼれ落ちそうなくらいブドウを満載したトラックは、ノロノロと幹線道路の右端を走ります。

La Mancha の地平に時々現れる丘には、たまに風車が残っています。いや風車と言うよりはその残骸と言うべきものが残っています。
ドンキホーテが向かっていった風車は、今はその役目を終えて小屋のみ残って、羽根はとっくの昔になくなっています。
町の入り口には必ずといっていいように、槍と楯を持って痩せ馬に跨った 痩身の騎士。 影絵のような彼らが、町の名前と共に一枚の孤立した白壁に張り付いています。
彼こそが「ラ・マンチャの男」ではないかと私は想います。

今も残る羽根付き 風車 を見たくて、Campo de Criptana(カンポ・デ・クリスターナ)とConsuegra(コンスエグラ)という小さな町へ行きました。
風車の羽根と屋根が黒で、白い円筒形の小屋とのコントラストが素晴らしく、見とれてしまいました。

Consuegraの風車は丘というより小高い山というべき場所に、城跡と共にありました。
私の車以外は2、3台。見晴らしはよいですが、とても沢山の人々が訪れる場所とは思えませんでした。
風が強くて肌寒いくらいなので車内で遅い昼食を採っていると、「どうやって町を抜けて来たんや」と思わず口に出してしまいそうな大型バスが二台、私の車に迫るようにターンして止まりました。
「物好きなツアー屋もあるんやなあ」と思っていると、ばらばらと降りて来たのが、信じられない事に日本人達。「なんじゃ、こりゃ」これは口から出てしまいました。
丘に吹いてくる風に飛ばされるように彼らが過ぎ去った後、ウダウダと昼食の続きをやっつけていると、更にもう一大の大型バス。これも日本人達。
今度は笑い出しそうになりました。私もガイドブック(地球の歩き方)を見てここに来たわけだから、日本人のツアーが立ち寄っても不思議な事ではない?しかし、マイナー過ぎるこんなところへ何故?疑問は深まるばかりでした。
風車小屋の管理人らしきおじさんが鍵を開けていたので、100ペセタだか150ペセタだかを払って覗いてみました。ひき臼もそのまま残っていて、今でも充分使えそうでした。おじさんは土産物を手に「コンニチハ」「ヒャクペセタ」と取り敢えず商売、商売。

私が次の行き先を決めて、そこを去る頃今度は小型バスで、4人の日本人。
プラド美術館でもこんな数の日本人には、出会っていません。大型バスが合計で3台、ほぼ満載でしたから、90人近いでしょうか。なんともはや、面白い経験でした。

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6 Oct 1997
Andalucia
どこかのガイドブックに、「スペインのフライパン」と書かれていたAndalucia(アンダルシア)地方。
そこに向かう車の周りは、広大無辺。まさに荒涼として赤茶けた大地が広がっています。
スペイン人が南アメリカを支配し移住した、ということが何となく納得できるような風景です。
その昔マカロニウエスタンのロケをスペインでやったということも理解できる、どこかで見たような風景です。
小高い山には木々の茂みはなく、小石だらけの大地に オリ−ブの木 が5m間隔くらいで整然と植えられています。草一本も生えていないそのオリ−ブの根本の地面は、きれいな同心円の紋章を描いています。

東ヨーロッパではどうなのか知りませんが、Italia、France、Spain、Portugalでは酢漬けやオイル漬け、あるいはニンニク漬けのオリーブの実を食べています。
Spainでは、Bar(バル)やCaffe(カフェ)でCerveza(セルベッサ/ビール)を頼むと、オリーブが付いてくることもありました。ケースの中に並んでいるつまみ類にも数種類の加工法のオリ−ブがあります。
酢漬けのサーディンを頼んだら、その上にオリ−ブを載せてくれたこともありました。それも1個や2個といったものでなく、小振りのものでしたが10個以上は載ってきました。
私はオリ−ブが好きなものですから、大抵の場合は皿の上には種しか残りません。

9月11日に、MadridからAndalucia地方のGranadaに向かった私は、そんな風景の中を1994年のように寂しい気持ちにもならず、車を走らせました。この日は天気が良く気温が高く、いかにもフライパンの上で焙られている様でした。
しかし翌日7aEtapaのSierra Nevadaでは標高のせいか曇っていて、時折小雨も降るあいにくの天候、肌寒いくらいでした。

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観客
観客・・・私もその一人ですが、Vuelta a Espana御一行を待つ間のボルテージは、Giro d'Italiaに比べて低く感じます。山頂ゴールのステージでも2時間前に、ゴール手前数キロ迄は車で行けました。Giro d'Italiaだったら、とっくの昔に登り道は閉鎖されています。
そして、早々と沿道に陣取って焼き肉とVino(ヴィノ/ワイン)で気勢を上げている連中もいませんでした。いや一組や二組ぐらいはいたかもしれませんが、目に付きませんでした。

7aEtapaのSierra Nevadaのゴール(標高2510m)近くにあるBarの前で、1994年にソーセージかサラミを焼いてパンに挟んで売っていた出店を今年も期待していたのですが、そこには何も無し。
そこそこの数の観客が集まってくるのですから、店開きしてたら結構な稼ぎになると思うのですが、なぜか開いていませんでした。
結構美味かったのに、残念でした。

15aEtapaのLagos de Covadonga(標高1120m)の様子はどうだったか判りません。前夜の麓のキャンプ場は小雨の中、暗くなっても続々とやってくるVuelta a Espana目当てのスペイン人達がテントを並べていましたから、「これは凄そうやんか」と盛り上がりを期待していました。
しかし私は当日、情けないことに食当たり(?)で近くのHotel(オテル)で一日中寝ていました。

そんな彼らもさすがに選手が現れると、熱狂の余りトップで上がってきた選手の尻を押そうとして、審判車から半身を乗り出したおじさんにたしなめられたりします。
あらかたの選手が過ぎ去り、激しい 雷雨 の中、帰りを急ぐ途中で出会った苦しそうな表情でゴールを目指す選手にも惜しみない声援と、尻押しで援助します。

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フォトグラフ - Vuelta a Espana 1997

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